写真生活手帖編集部
いまの暮らしに、+写真「写真生活手帖」の編集部です。 暮らしをちょっと楽しくする写真生活の提案をしていきます。
写真のこと
21.03.01
写真研究者の小林美香さんと、ギャラリー・ナダール店長の早苗が、人に写真を見てもらうことから始められること、深められることって何だろう、ということについて話しました。
写真を見せるってどういうこと?というところからスタートしたこのおしゃべり、次第に話題は「写真と言葉」のことに。
早苗 ナダールというギャラリーの根っこにある考え方として、写真はただ単に見せるというより、人と人の間に写真を置いてこそ、だと思っているんです。そういうことができるんだったらいろいろな手段を使っていいと思っていて。そういう観点からずっと気になっていることの一つが写真と言葉のことです。
写真の世界って、写真に言葉を添えることの是非をめぐる議論がありますよね。
小林 確かに、写真作品を展示する時に、写真以外の要素を極力排除して、言葉を削いで見せることを良しとするストイックな姿勢や方法が良しとされる考え方は根強くありますね。
早苗 私自身は、まず最初にその人が伝えたいことが伝わるように見せる、ということが一番大事なのではと思っているんです。言葉を添えた方が伝わるのであれば、添えた方がいいし、写真を見せる方法を狭めすぎたくないという感じです。写真表現として以前に、その人の表現という意味では、それは否定されるものではないと思うんです。
小林 私は美術館で仕事をしたり、ギャラリーなどで展覧会を企画してきた経験があるので、展覧会という形で写真を見せる上での方法や作法のようなものがあることは理解できるのですが、「展示の作法に従わなければ表現として認められないのではないか。」と思い込んでいる人が多いとも感じます。
展示は、作品のお披露目の場、「集大成」あるいは「完成形」として位置づけられますが、作品を作り続けている過程を見せる機会でもあるわけですよね。作品を展示して、見る人からの反応を得ることでまた新たな視点を得て作品制作に取り組むこともできるわけで。まずはグループ展に参加してみて、その後に個展を開催するとか。巨匠として評価されている写真家も、同じ写真をプリントのサイズを変えて展示をしたり、写真集を作ったりする過程で、何回も写真を見返したりして、時間の経過の中でその都度新しい発表の形を模索していますものね。
作品を見せ続けるという過程が、作品を育てていくことにもなるわけですし、編集者や展覧会を企画するキュレーターのような写真作品に関わって行く人の存在があって、その時々の発表形態が変わっていきます。そういった過程があって、作品の価値が醸成されていくとも言えるのではないでしょうか。その時々で写真について自分の言葉で話をしたり、言葉を紡ぐことで、後になって写真を見返したりする時に、その写真を大切に扱うための手がかりを残していけるのではないかとも思います。
早苗 写真に言葉を添えることで写真の見え方が変わってしまうかもしれない、という可能性に対して、それでも「写真表現と言えるのか」と自信をなくしたり、不安になってしまう人もいます。
例えば、ある写真を見た時に最初はあまりピンとこなくて、その写真が撮影された背景の書かれたテキストを読んだ後、急に写真が良く見えてきたというような体験があった場合に、それは純粋な写真の作品としての良さではないのではないかと思ってしまう、と。私自身は、それはあまりにも極端だな、と感じるのですが。
小林 日常生活で、写真を見る時というのは広告とか報道の写真のように何かしら文章やキャプションを添えられたものを見ているので、周囲に何も言葉や情報がない状態で写真を見ることの方が少ないですよね。
確かに、写真作品の中には、言葉によって具体的な情報が差し出されていなくても、思わず見入ってしまうような強度を備えたものがありますが、そのような強度のみを追求することが表現活動ではないと思うんですよ。そういう強度を求めることのみに専心すると、写真を撮ること自体が一種の修行化するというか、ストイックな態度が求められてしまうことになると思います。確かに、一つの道を極めるというのは大切なことだと思うのですが、そのような態度だけでは続けられないですよね。
早苗 まずは「私は今これを伝えたいんだ」という思いがあることが大切だと思うんです。体裁的として写真作品の形にするということにあまりにこだわり過ぎて、その形に収めるような考え方になってしまうのは少し残念な気がします。
作品を見るときは一旦相手の土俵に乗って見るということが大事だと思うんです。逆に、見せる人はきちんと自分の土俵を提示しないといけない。タイトルやステートメントを含めて、写真に添えられた言葉が、その役割を果たすのではないかと。
小林 それは古くから言われていることを喩えにすると、「礼」という考え方にも通じますよね。見せる・見るという仕組みがあるならば、その作法や手順に従ってまずは知って、尊重するということは、相手にとっても自分にとっても良いわけですし、合理的な考え方ですよね。
早苗 土俵も何もないところに、作品だけを持ってきて「見たかったら見て下さい」みたいなのは、むしろ不躾というか、見せる側としての礼を欠いていることになるんじゃないかと感じるんです。私にとって展示というのは、自分の土俵を提示し、その土俵を広く開放して他者が入れる場を作っていくものなんですよね。展示する人の中には、「見る人がそれぞれに自由に何か感じてくれればいいです。」という人も多いんですけれど。
小林 「見る人がそれぞれに自由に何か感じてくれればいいです。」という言い方をしてしまうのも、ある種刷り込まれた考え方ですよね。人ってその人の都合でしかものは見られないわけですから。
早苗 写真は現実の世界を切り取ることから始まる表現なので、見る側にとっても地続きだと錯覚してしまうのかもしれませんね。だから相手の土俵に入らずとも写真を見れてしまうと思ってしまうことはあるのかもしれません。
作家側にも、写真の見方を固定してしまうのではないかという心配から写真にキャプションをつけたくないという人もいるのですが、私としては「伝えるために必要かどうか」を重視した方が良いと思っています。見せる側がそんな心配をしなくても、結局見る側は、それぞれに経験してきたことに基づいたそれぞれの眼差しで作品を見るわけで、委ねるしかないのです。ならば、見せる側は伝えたいことを力の限り示す以外ないのではないかと…。
さまざまな議論のある「写真と言葉」のこと。正解や結論のある話ではありませんが、それぞれが考え続けることが大切なのかもしれませんね。
おしゃべりはまだまだ続きます。表現すること、そして、評価されることについて。次回でこのおしゃべりは一旦終了です。最後までどうぞお付き合いください。(次回:3/3公開予定)