旅に出る時は必ずカメラを持っていく。旅の荷物はできるだけ軽くしたいもの。けれどこの荷物だけは我慢して運ぶことにしている。
写真の勉強を始めたのも、旅先の風の匂いや賑やかな町の音、ローカル食堂から立ち昇る湯気を、できるならほんの少しでもプロに近づいて、もっと上手にあの四角いデータに再現したかったからだ。
けれど、自分の写真にはいつもがっかりする。どうにも再現性が低い。構図もそうなら光の加減もそう、なんだかスケール感もないし、撮りたかった気持ちだけが空回りしていたようで気恥ずかしささえ感じる。
プロであれば、どれだけ正確に写し取れるのだろう。巷に溢れる「素晴らしい写真」を見るたび、溜め息をつくのだ。
しかし、そんな私にも、ごく稀に、愛しくてたまらない一枚が生まれることがある。
例えばそれは、ピントが合っていないかもしれない。
光の加減もよろしくないかもしれない。
余計なものが映り込んでいるかもしれない。
それでも、その一枚を、とても気に入ってしまっているのだ。
その一枚を取り出すだけで、
満開の桜に降る冷たい雨、
気が遠くなるほど暑かったアンダルシアの昼、
食べ過ぎて胃痙攣を起こした香港の道端、
瞬きするのも惜しかったオーロラが踊る夜も、
例えばそれ自体が写っていなくても、まるで五感が装備された立体映像のように、ありありと蘇ってくる。
それが、思い入れたっぷりに、光を読んで、構図に気をつけて、何なら三脚だって立てて「きちんと」撮った写真ばかりではないことも多く、それはそれでがっかりもするのだが。
けれどこれからも、旅先か、自宅の周辺か、写真の神様がたまに寄こしてくださる奇跡の一枚を信じながらシャッターを切り続けるのだろうと思う。