「その旅で一番美味しかったものはなんですか?」
私にとって、この質問は大変嬉しい問いだ。それこそ大好きな香港だったりすると、相手は「一番は?」と聞いているのに、いくつも答えてしまう。
私の脳みそは再現性が高くない。(忘れっぽいとも言う。)けれど、食べ物に紐づいた記憶に限っては、すぐに引っぱりだせる構造になっているらしい。
息をのむ絶景の感動は割とすぐに薄れてしまうのに、あの時食べたアレ!と入力するだけで、即座に思い出ムービーが脳内に立ち上がってくる。シアワセな脳みそである。
牛肉湯の夜
例えば、台南の小さな食堂でのこと。
牛肉湯というのは、生の牛肉に熱々のスープをかけたもの。鮮度の良い牛肉が手に入る台南ならではのご当地グルメである。有名店も数多い。
絶対に美味しいと知人に教えてもらったその店は、泊まっていたエリアからは少し離れていたけれど、レンタルサイクルで向かった。
自転車を停めると、店頭で仕込みをしていたおやじさんが「さあさあ入って、ここに座って」と迎え入れてくれた。beef soup,small でオーダーが通り、数秒後にはもうそれは感動的にいい香りを放つ牛肉湯がやってきた。
店には常連らしいサラリーマン風の二人連れがいて、楽しそうに店のおやじさんと話していた。中国語ができない私たちには、彼らが何を話しているのか分からない。
そのうち、彼らがこちらを見ながら話しているのに気づいた。何だろう、と身構えながら目を上げると、二人が簡単な英語で話しかけてきた。
「こうやるといいんだよ」
卓上の銀色のポットから大量の生姜の千切りをつまみ上げてお椀に入れ、チリソースのようなタレをかける。そこに絶品スープを注ぎ、スープの中の半生の牛肉と一緒に頬張る。
おやじさんはニコニコしている。
それはもう最高に美味しかった。
新鮮で雑味のない赤身肉と旨味たっぷりのスープは、それだけでも十分以上に美味しい。そこに、控えめな生姜の辛味ととろりとした少し甘みのあるソースが組み合わさると、口に広がる清涼感と何故だかコクが格段にアップするのだ。
生姜をつまみ上げるトングが、箸が止まらない。
彼らは、私たちが間違いなくその食べ方ができるのを見届けると、また二人の会話に戻った。おやじさんも店先の厨房で明日の仕込みを始めた。
小さな食堂の牛肉湯が、忘れられない一皿になった瞬間だった。
あの夜の気温と湿度、牛肉の噛みごたえ、生姜の香り、裸電球の灯り、彼らのスーツの色もおやじさんの包丁の音も、いつでも完璧に思い出せる。
次に行ったら、おやじさんに写真を撮らせてもらおうと思っている。