心落ち着かなかった今年の春先、家で過ごす時間をどうやったら少しでも穏やかにできるか、と日々考えていました。食事のひとときや身体を動かしている時と同じように気持ちを和らげてくれて、ほとんど出かけられない中でも深い思索の森へと誘ってくれたのが読書でした。リビングの本棚から選んで読み返してみたり、新たに買い求めたりして何冊かの本を読んだ中で、舞台となる北海道の小さな丸太小屋を抱く美しい庭で幾度となく交わされた、青年と老人のやりとりが心の内側に染み渡っていって、今も余韻となって響いてくるのが「庭とエスキース」です。
奥山淳志『庭とエスキース』
作者の奥山淳志さんは雑誌の編集の仕事をしていた20代半ばに、ある取材で井上弁造という一人の老人と出会います。弁造さんは当時78歳、北海道の開拓移民の最後の世代で、自分で組んだ小さな丸太小屋に住み、実験場と呼んでいた庭を耕しながら自給自足の生活をしていました。小さな頃から絵を描くのが好きだった弁造さんは、画家になるのを夢見て若い頃にはコツコツと貯めたお金を持って農閑期に上京し、小石川にあった画学校で学んだことがありました。やがて戦時下となり、家庭の事情もあって一度は筆を折ったものの、絵に対する思いは消し去ることができず、15年ほどの空白を経て再び絵を描きはじめます。弁造さんの小さな丸太小屋にはイーゼルがあり、そこにはいつでも書きかけの絵がかけてありました。
弁造さんと出会ったとき、奥山さんは勤めていた出版社を辞めて岩手に移住する計画をあたためていて、そこで写真家になることを考えていました。それからわずか2ヶ月後、移住した地で東北の風土にレンズを向けながらも、弁造さんのことは片時も頭から離れることなく、むしろ日に日にその存在は大きくなっていきました。ある日、ついに奥山さんは衝動に駆られたかのように電話をかけると、弁造さんのことをしばらく撮らせて欲しい、とまくしたてるように伝えて、その数日後には北海道のあの丸太小屋に向かいます。写真家として歩き始めたばかりの25歳の青年の願いを聞くと、弁造さんは「あんたが好きなときに来りゃあいい、わしは毎日、ここにいるだけじゃ」と言って笑いました。
その日から始まった2人の交流は弁造さんが亡くなるまで14年に及びました。弁造さんが亡くなった後、奥山さんが残された遺品の一つ一つとまるでエスキースの線をなぞっていくように真摯に向き合うことで、さらに6年にわたってその対話は続いていきます。初めて弁造さんと出会ってから実に20年という歳月が過ぎた2018年、奥山さんは315枚の写真で構成された私家版の写真集「弁造 Benzo」を300部製作し、東京と大阪で写真展「庭とエスキース」を開催しました。これがみすず書房の編集者との出会いにつながり、それから奥山さんが1年をかけて執筆してようやく完成したのが、写真展と同じタイトルを冠した本「庭とエスキース」です。
弁造さんがよく着ていた着古したセーターと同じ、辛子色の手触りの良い表紙に包まれたこの本には、奥山さんが弁造さんと共に過ごした記憶を辿っていく過程で、心の内から自然と湧き出てきた言葉が綴られ、ローライフレックスの柔らかなレンズは、北海道の美しくも厳しい四季折々の自然のもとで、92年という人生を全うした弁造さんの命(いのち)の一片一片をはっきりと写し取っています。
奥山さんは刊行した本と自身でプリントした写真とともに、弁造さんが残したエスキースを額装して一緒に全国を巡回しました。そして展覧会の最後の会場となったのが私の住んでいるつくば市にある馴染みの珈琲店で、写真とエスキースを実際に目の前で見ることができました。かつて80歳近くになっていた弁造さんが、「絵のための人生だとずっと思っとった。やっぱり絵描きになりたい。今でも絵描きになりたい。」と何度も変わらないその思いを伝えていた奥山さんの手によって、完成しないまま遺されたその絵は世に出て行くことになりました。
これほどまでにひたむきに、家族でもない他者と向き合い、生きることを知ろうとする青年と、その思いを鷹揚と受けとめながらも時に、尽きない画家へのたぎるような思いをもらす老人とが、14年にわたって積み重ねていった幾多のやりとりは、私の心に清々しい風を吹かせて新鮮な感動を与えてくれました。
人同士の物理的な距離が広がるに連れて、不安や偏見が膨らもうとしている今、他者の気持ちを汲みとろうとする姿勢が、これまで以上に大切だと感じています。作者の奥山さんが今なお続けている弁造さんとの誠実な対話は、他者と共に生きる言葉として、読者の私たちにもまた直に伝わってくるものだと思うのです。