実を言うと、村上春樹氏の小説はよく分からない。好きか嫌いかと言われても「よく分からない」としか答えられない。私に作品に対する理解力がないのか、そういう感性が欠如しているのか、なかなか読み進められず、ほとんど読み終えたことがないからである。
だが、彼の旅行記は別だ。旅好きの心をくすぐる各地の描写、「研ぎ澄ました」という労力を感じさせない、軽妙かつ余裕たっぷりな文章。行間から溢れる優しい眼差し。悔しいけど大変好きなのである。
中でも、もっとも心を動かされた一冊が「遠い太鼓」だ。
村上春樹『遠い太鼓』
570頁ほどもある長編だから、おこもり時間にゆっくり読むにはちょうどいい。と言いたいところだが、ひとつ注意点がある。旅好きは心して本を開くようにお願いしたい。私はこの本を読んですぐにギリシャ行きのチケットを予約した。
1990年出版とのことだから、かれこれ30年も前に書かれた旅行記である。ベストセラーになった「ノルウェイの森」、「ダンスダンスダンス」を執筆していた頃、村上氏は飼い猫を友人に預けてヨーロッパを旅していた。本書はその3年に渡る旅を記したものだ。
まずこの本は、表紙からズルい。
猫である。これはいけない。
表紙にこの写真が使われていなかったら、私は手に取らなかったかもしれないのだ。
ページをめくる。
すると、こんな一節が記されている。
遠い太鼓に誘われて
私は長い旅に出た
古い外套に身を包み
すべてを後に残して
(トルコの古い唄)
これで読者は一気に村上夫妻の遠い旅に連れて行かれる。ローマからアテネ、ギリシャの離島、ロンドン、ザルツブルク…、ヨーロッパのあちこちを行ったり来たりしながら、家を借り、季節を迎え、面白い人々に出会い、ひととき生活をしていく。憧れの海外生活。しかも印税で!
ところが、その旅は「楽しい・美味しい」だけの旅ではない。どちらかというと村上氏が「やれやれ」とごちていることの方が印象に残る旅行記なのだ。
例えば、サマーハウスで迎える過酷な離島の冬。頭が痛くなるほどの車の騒音に悩まされる町、何もない島。アルプスでの車のトラブル。それなのに、読み終わるや否や、その残念な場所に無性に行ってみたくなるのだ。
この感じ、北海道テレビが誇る旅番組(なのか?)「水曜どうでしょう」に似ている。いつも思ったように旅が進まず、全員がやさぐれてぼやき倒すどうでしょうの旅。そして、彼らが訪れた地へのファンの巡礼は後を絶たない。
旅の魅力は「綺麗だった」「美味しかった」「楽しかった」だけではないということだろう。その残念な体験がリアルであればあるほど、その旅先の魅力が光を放つという、不思議な現象が巻き起こるのだ。きっと、ダメだと言われる場所ほどついつい行ってみたくなる。ダメさを体験してみたくなる。ちょっと変態的かつ屈折した愛情のようなものが、旅人には備わっているのだろう。
さて、そろそろ遠い太鼓の音が聞こえてきた。
この小さな本が指し示す場所へ、旅を始める用意でもしよう。