暮らしのこと

20.10.17

【おこもり時間に読みたいおすすめの本 vol.8】旅への誘い

小野﨑 由美子

小野﨑 由美子

実を言うと、村上春樹氏の小説はよく分からない。好きか嫌いかと言われても「よく分からない」としか答えられない。私に作品に対する理解力がないのか、そういう感性が欠如しているのか、なかなか読み進められず、ほとんど読み終えたことがないからである。

だが、彼の旅行記は別だ。旅好きの心をくすぐる各地の描写、「研ぎ澄ました」という労力を感じさせない、軽妙かつ余裕たっぷりな文章。行間から溢れる優しい眼差し。悔しいけど大変好きなのである。

中でも、もっとも心を動かされた一冊が「遠い太鼓」だ。

村上春樹『遠い太鼓』

小野﨑由美子・おこもり時間に読みたい本・遠い太鼓

570頁ほどもある長編だから、おこもり時間にゆっくり読むにはちょうどいい。と言いたいところだが、ひとつ注意点がある。旅好きは心して本を開くようにお願いしたい。私はこの本を読んですぐにギリシャ行きのチケットを予約した。

1990年出版とのことだから、かれこれ30年も前に書かれた旅行記である。ベストセラーになった「ノルウェイの森」、「ダンスダンスダンス」を執筆していた頃、村上氏は飼い猫を友人に預けてヨーロッパを旅していた。本書はその3年に渡る旅を記したものだ。

まずこの本は、表紙からズルい。
猫である。これはいけない。

小野﨑由美子・おこもり時間に読みたい本・遠い太鼓

表紙にこの写真が使われていなかったら、私は手に取らなかったかもしれないのだ。

ページをめくる。
すると、こんな一節が記されている。

小野﨑由美子・おこもり時間に読みたい本・遠い太鼓

遠い太鼓に誘われて
私は長い旅に出た
古い外套に身を包み
すべてを後に残して
 (トルコの古い唄)

これで読者は一気に村上夫妻の遠い旅に連れて行かれる。ローマからアテネ、ギリシャの離島、ロンドン、ザルツブルク…、ヨーロッパのあちこちを行ったり来たりしながら、家を借り、季節を迎え、面白い人々に出会い、ひととき生活をしていく。憧れの海外生活。しかも印税で!

ところが、その旅は「楽しい・美味しい」だけの旅ではない。どちらかというと村上氏が「やれやれ」とごちていることの方が印象に残る旅行記なのだ。

例えば、サマーハウスで迎える過酷な離島の冬。頭が痛くなるほどの車の騒音に悩まされる町、何もない島。アルプスでの車のトラブル。それなのに、読み終わるや否や、その残念な場所に無性に行ってみたくなるのだ。

この感じ、北海道テレビが誇る旅番組(なのか?)「水曜どうでしょう」に似ている。いつも思ったように旅が進まず、全員がやさぐれてぼやき倒すどうでしょうの旅。そして、彼らが訪れた地へのファンの巡礼は後を絶たない。

旅の魅力は「綺麗だった」「美味しかった」「楽しかった」だけではないということだろう。その残念な体験がリアルであればあるほど、その旅先の魅力が光を放つという、不思議な現象が巻き起こるのだ。きっと、ダメだと言われる場所ほどついつい行ってみたくなる。ダメさを体験してみたくなる。ちょっと変態的かつ屈折した愛情のようなものが、旅人には備わっているのだろう。

さて、そろそろ遠い太鼓の音が聞こえてきた。
この小さな本が指し示す場所へ、旅を始める用意でもしよう。

小野﨑由美子・おこもり時間に読みたい本・遠い太鼓

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この記事を書いた人

兼業旅人/猫愛好家/社畜

小野﨑 由美子 Yumiko Onozaki

旅と食と猫を愛するバブル入社の社畜。都内在住。 渡航歴は80回以上、訪れた国は30か国。香港への渡航は20回を超える。 以前はキレイな海や美味しいローカル飯が旅の主目的だったが、最近はグレートネイチャーな旅も。 愛猫しじみは元捨て猫(♂)。夫婦で絶賛溺愛中。 NADAR「女性による女性のための写真教室」で本格的に写真に取り組み始める。 愛猫はもちろん、旅の景色と食べ物、日々の東京を撮っている。

WEBサイト:Blog「次、どこ行く?」

instagram:@shijistagram